剣術から学んだ勝海舟の闘いと志

蘭学や西洋の兵学を学んだ「勝海舟」は、渡米することで日本の開国の必要性を重んじるようになったようです。幼い頃に世界地図を目にした事から、世界への視点が備わっていたと言われています。独学で、オランダ語を学び、一早く国際情勢や海防論などに興味をもっていたようです。1853年のアメリカ海軍の浦賀への来航に、日本幕府に激震が走ったさなか、今後の政策に対して広く意見を求めたようです。勝海舟は、外国との交易の必要性を説いたと言われています。「海防意見書」が、認められることで家臣となりました。その後、渡米を果たし、近代国家や民主主義を知った勝海舟は、日本の発展を開国に結び付けて考えていたようです。神戸に私塾「海軍塾」を開校し、坂本龍馬なども学びました。幕府の機関でもある海軍操練所を設立し、私塾同様に身分は問わず、幅広い人々に文とを開いたようです。勝海舟は、日本に海軍をつくることによって、日本の富国強兵を願っていたようですが、生徒たちの倒幕運動から閉鎖されてしまうこととなってしまいました。諸外国に並ぶための日本の近代国家を夢みていた勝海舟ですが、剣術の達人としても知れています。剣術の腕は申し分ないほどであったにも関わらず、幕末の動乱時に、刀を抜かなかったことでも有名な勝海舟は、戦いをしない方法で勝術を身につけていたとも考えられています。剣術を学ぶことによって、勝海舟は、戦いの極意を学んだのかもしれません。周囲からの人望の厚かった勝海舟は、新島襄や大隈重信などを援助し、現在の同志社大学や早稲田大学などの教育事業をサポートする中で人材の育成を熱く行っていたようです。